本書は、歴史学者で、武家社会について研究なさっている笠谷和比古先生が、1990年代に著されたものです。
ひとくちで説明するなら、武家社会と、現代の日本企業との共通性に関する学術論文です。
学術論文なのでおもしろくないわけではなく、むしろ、歴史好きにとっては新しい視点を与えてくれる内容です。
徳川吉宗の享保改革が柔軟な人材登用システムを構築
ドラマ「暴れん坊将軍」でおなじみの徳川吉宗は、歴史の教科書では享保改革とセットで紹介されています。
しかし、中学や高校で学ぶ享保改革は、米価対策であったり、町火消しであったり、目安箱であったり、とかく表面的です。
実際のところ、日本史は適当に流したわたしにとって、享保改革の記憶はこれくらいです。
ところが、「士(サムライ)の思想」には、幕末にまで連綿とつづく人材登用システムが、徳川吉宗によって構築されていたということが明らかにされています。
まずは享保改革の中身の復習から。
改革1:財政再建
享保改革では、上げ米(大名に石高1万石に対し100石の米を納めさせる代わりに、参勤交代による江戸在府期間を半年とした制度。幕府の増収に貢献したが、1730年廃止)、新田開発などのほか、年貢収入の安定化のために、定免法(じょうめんほう)や有毛検見法(ありげけみほう)などを採用しました。
改革2:江戸市政の改革
こちらはテレビドラマ「暴れん坊将軍」や「大岡越前」で良く知られています。
町火消しの創設により、火事の多い江戸市中での消火活動がすみやかに行われるようにしました。
「暴れん坊将軍」や「大岡越前」でも、町火消しの構成員(組)の人たちが、吉宗将軍や江戸町奉行を助けてくれます。
あわせて物価対策、通貨改正などをおこなってインフレ対策にも努力しています。
さらに、殖産興業にもつとめ、長崎貿易で輸入していた物品を国産化させたり、漢訳洋書の輸入を緩和したりしています。
この辺は、ドラマだと、米や油の値上がりで庶民が困っているとか、贋金作りとか、またはご禁制品の密輸といったテーマで、何度もストーリーがつくられています。
また、天体や気象観測も、吉宗将軍が率先して行ったり、青木昆陽や野呂元丈に翻訳を進めたりして、のちの蘭学の基礎をつくることにもなりました。
改革3:司法の整備
幕府が出した法令、約3500を編纂した事業により「御触書集成」がつくられたり、名奉行として知られた大岡忠相による「法律類寄」が編纂されたりしました。
改革4:行政組織の改革
足高制(たしだかせい)
幕府の各役所のそれぞれに、基準となる石高を設定して、家禄がそれに満たない人材を、それらの役所に任用する場合には、基準となる石高と家禄の差額を「足高」として、役職就任中のみ支給する制度。
昇進や抜擢のシステムとして活用されました。
このシステムのおもしろい点は、伝統的な軍制的な身分秩序に準拠しているということで、身分制度は崩さずに、優秀な人材を抜擢することにあります。
とくに勘定奉行の任用では、足高制(たしだかせい)を実施して以降、500石未満からの登用が半数近くを占めます。
大目付や江戸町奉行、勘定奉行は3000石の家禄が求められていましたから、500石の家禄しかない人材は、本来なら勘定奉行にはなれません。
しかし、500石の人材が優秀であれば、足りない2500石を補って、基準となる家禄にするのが足高制(たしだかせい)なのです。
この制度のおかげで勘定奉行となった人材には、
杉浦佐渡守能連(よしつれ)
細田丹波守時以(ときより)
神谷志摩守久能(ひさよし)
神尾若狭守春央(はるひで)
萩原伯耆守美雅(よしまさ)
といった面々がいます。
そして、この人材登用システムのおかげで、日本型組織が近代化していったというのが、「士(サムライ)の思想」の主張のひとつなのです。
社会変動が激しいほど有効な足高制
この足高制が、その本領を発揮するのが、実は幕末です。
身分制を維持しつつも、優秀な人材を抜擢できるシステムが100年以上も運用されてきた実績があったからこそ、幕末の対外問題に対して、有能な人材を大量に登用することが可能だったわけです。
笠谷先生は、「幕府官僚制は身分制的枠組を保持しながらも、高度な組織変化を遂げていた」と書いておられます。
幕末に活躍した幕臣
幕末に活躍した幕臣として勝海舟は有名ですが、勝海舟も幕臣としては身分の低い家柄の出身です。
同じように、本来は身分が低いにもかかわらず、幕末に活躍した人物がいます。
川路聖謨(としあきら)
父・吉兵衛が「御徒」株を取得して御家人となったのち、川路三左衛門の養子となり、わずか2年で御目見以上となった秀才。
ペリー、プチャーチンとの条約交渉の全権代表となり、日露和親条約を締結。
安政の大獄に連座し、江戸城開城目前に、自宅で拳銃自殺を遂げます。
井上清直の実兄。
井上清直
外国奉行としてハリスとの日米通商条約の締結交渉にあたりました。
川路聖謨の実弟で、幼くして井上家に養子に入り、17歳で幕府評定所書物役になります。
ハリスとの条約交渉における全権として、岩瀬忠震(ただなり)とともに活躍し、その後も各国との条約交渉における全権の一人として参画しています。
兄の川路聖謨は、安政の大獄以降は表舞台には出てきませんが、井上清直は、安政の大獄で左遷されますが、その後、軍艦奉行となって海軍の発展に尽力したり、幕府の留学生をオランダに派遣することを実現させたりしています。
岩瀬忠震(ただなり)
日米通商条約に全権として調印した人物。
開明派のリーダーとして、幕府の外交をリードしました。
ほかに、栗本鋤雲、永井尚志、大久保忠寛、水野忠徳、江川英竜、小栗忠順、榎本武揚などがいます。
能力主義を支えた養子制度
川路聖謨、井上清直の例でもわかるとおり、日本において「家」を存続させるためには、養子として優秀な人材を「家」に入れることを積極的に行ってきたことがわかります。
家の財産を守り、家業の継承を目的としているため、継承者には、それに見合うだけの能力が求められました。
そのため日本では、父系の血統を重視して養子を求める傾向が薄く、中国や韓国などの儒教国の父系氏族以外は養子にできない養子制度(異姓不養)とは異なっています。
他人でも、家の継承者として適当と考えられた場合には、養子として迎え入れられたのです。
また、婿養子という制度もよく利用されており、現代でも婿養子による事業継承などが見られます。
庶民が武家になれる御家人株の売買
幕臣には世襲が認められた身分と、一代抱えで世襲が認められていなかった御徒、与力、同心といった身分の人々に分けられていました。
御徒、与力、同心の人たちに相続者がいない場合に、新規に抱え入れるということになります。
このような仕組みが、御家人株というものの売買が行われる背景にあります。
御家人株の売買は、次の3種類に類型化できます。
養子相続
番代(奉公の代行)
俸禄米の一部譲渡
のちの時代になるほど番代が増えるようになりますが、この御家人株の売買によって、能力のある人材が武家社会に参入することができるようになっていました。
川路聖謨、井上清直の父・吉兵衛は、江戸にでて御家人株を取得して御徒となったうえで、息子たちをそれぞれ養子に出しています。
このやり方は特別なものではなく、当時として一般的なものであったことがわかります。
タテ社会にはハシゴがかけられている
ピラミッド型階層社会には、身分を上昇させるハシゴがかけられている、と本書は主張します。
たとえば、没落した武家は、実子がいたとしても病気などの理由をつけて、多額の持参金をもたらす養子を迎え入れたり、御家人株を取得することで武家社会の末端に連なることができれば、足高制によってえ、その人物の能力と才覚次第で大きな役割を与えられたりしました。
つまり、日本型組織には、能力主義的な仕組みが内在していて、チャンスは広く与えられていたというのです。
たしかに、日本企業の人事システムには、このような側面が見られます。
現代の御家人=正社員?
本書が最初に発表されたのが1993年。
バブル経済が崩壊し、日本経済は混乱の真っただ中でした。
その頃から大規模にはじまったのが、非正規雇用です。
タテ型社会の良さが、日本型組織の良さでもあるとしている点だけをみると、現代における武家社会は大企業であり、大企業の正社員となることがタテ社会のハシゴを使える権利を獲得することなのだろうと思います。
つまり、非正規で働く人は非武家であり、正社員が武家であると言えるのではないでしょうか。
御家人株を取得することによって武家社会に参入できるということは、正社員にならなければ、日本の労働者として正当な権利を持てないということなのかもしれません。
実際に、就職氷河期時代に非正規で働き始めた人たちのなかには、キャリア形成ができずに正社員になれないままの人がいます。
正社員になることがすべてではありませんが、日本型組織における個人の自立において、正社員となることが不可欠なのかもしれません。
なぜなら、暴れん坊将軍以来、数百年つづくシステムは、ちょっとやそっとでは変わらないと感じるからです。
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